« いっつも思うのだが…、 | トップページ | さよなら、ミーコ。 »

2007年2月25日 (日)

Pity's akin to love.

>与次郎はしばらく考えていたが、
>「少しむりですがね、こういうなどうでしょう。かあいそうだたほれたってことよ」
>「いかん、いかん、下劣の極だ」と先生がたちまち苦い顔をした。その言い方がいかにも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑い出した。

 初めて「三四郎」を買って貰ったのは中学校一年生の時だった。元々読書嫌いな僕はこれを読了するのに数年を要してしまったのだが、その後いつまでも印象に残ったのが、

> 三四郎はなんとも答えなかった。ただ口の中で迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)と繰り返した。

 という結びの言葉と、冒頭引用部である。
 結びについては文学作品の常として百人百葉の捉え方があっていいかと思うし、またそこに共通して感じるものあるだろう。そう言うことを僕のような凡愚が言っても始まらないので省く。

"Pity's akin to love"...

 与次郎の翻訳たる『かあいそうだたほれたってことよ』は、当時日本語として何を言っているのかすら理解できなかった。漱石が江戸弁を好んだことなどは知る由も無し。それが『可哀想だた惚れたってことよ』と漢字表記で見た時、「ああ、そういうことか。」とはかがいったものだが、それでもまだ少年と言っても良かった自分には、「可哀想」と「惚れた」がどうしてイコールなのかはやはりまだ分からなかった。

 時が、流れて。

 今は、この言葉に漱石が込めた真意が、とてもよく分かる。分かってしまう。
 同時に、当時何故この台詞の意味合いをよく理解できなかった…というよりある意味反意をすら覚えていたかと言うことも。
 それが幸なのか不幸なのか、僕にはよく分からないけれど。

 「可哀想」を「憐憫」と訳すとなにかそれは、「持てるものが持たざるものを哀れむ」ような気がしてならなかった。「お裾分け」のような、なにか高慢ちきなイメージをこの言葉に僕はマップしていた。だからこそ、反発心を覚えてたんだろう。「あんたなんかに哀れんで貰いたくねーよ」。

 ただ、時を経て、歳を重ねて、思ったことがある。
 生涯僕を縛る呪縛にも繋がっているのだが、少なくとも僕にとって、思う人が、人には言い出せない自らの傷やその痛みを明かしてくれること、それは自分のその人に対する想いをいっそう強くする。
 「可哀想」なのか「憐憫」なのかは知らない。
 ただ僕にとって、そういうことを話してくれたことと言うのは、それ即ちその人が僕に信を置いている証左そのものであり、そのような人に、やはり愛情をよりいっそう感じてしまう。

 余人は知らず。自分は。

 夏目漱石という人は、「愛」や「憎」に関して「これでもか。これでもか。」というほど深く、時には惨くえぐる。ひと~男女~の愛憎に、古今東西もないのだろうけれども、その洞察力と表現力は、今でも僕に再読を躊躇わせるほどの作品を生み出している。

 その名を「こころ」と言う。

|

« いっつも思うのだが…、 | トップページ | さよなら、ミーコ。 »

コメント

『かわいそ~なんで萌え萌えですぅ~』
が今風だと…
確かに、何を言ってるのかわかんなかったです

投稿: | 2008年2月27日 (水) 18:23

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/109238/14038813

この記事へのトラックバック一覧です: Pity's akin to love.:

« いっつも思うのだが…、 | トップページ | さよなら、ミーコ。 »